​美について

いつたん此世にあらわれた以上、美は決してほろびない。
眞理はつねに更生せられて、一つの眞理から次の眞理へとうつりかわり、前の眞理はほろびる。それが眞理の本然である。
美は次々とうつりかわりながら、その前の美が死なない。
紀元前三千年のエジプト藝術は今でも生きて人をとらえる。
一民族の運命は興亡常ないが、その興亡のあとに殘るものはその民族の持つ美である。
その他のものは皆傳承と記録との中にのみ殘るに過ぎない。
美を高める民族は人間の魂と生命とを高める民族である。

美      

      高村光太郎

1954年

 高村光太郎は、別の文章で「事物ありのままの中に美は存するのである。」 (「美」1939年)と述べている。

 どうやら高村光太郎のいう美とは、「この世の全てのものを愛おしいと思う感情」のことのようである。

 それはそれで良いのだが、彼によればこの感情が「民族を高める」のだそうだ。

 どうやらこの「美の精神」を持っている民族が優れているということらしい。

 民族の文化に優劣があるのか? 

 美とは主観であるが、美を語る本人はあまり主観的と思っていない傾向がある。美とは判断能力を失わせてしまうものでもあるらしい。

 

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私はシュプレマティズムを造形芸術における純粋な感覚の絶対性であると理解している。

シュプレマティストの視点からみると、対象的な自然の諸現象はそれ自身において無意味なのである。

本質的なのはその感覚である。 ー 発生した環境からまったく自立した、それ自身としての感覚である。

 

無対象の世界

  カジミール・マレーヴィチ

1927年​

 シュプレマティスムとは絶対主義と訳される。
 何の絶対かというと感覚がその全てであるという主義だ。


 想像してみて欲しい。
 対象の無い感覚はあり得るだろうか?
 心地よいとか、眩しいとか、甘いとか、熱いとかそのような具体的なものでない、対象のない感覚である。

 ”自己はどのようにして世界を見るか、自己はどのようにして自己を見るか”・・・セザンヌから始まってキュビスムが引き継いだこの認識の芸術は、マレーヴィチにおいて、透明な対象の無い感覚という境地に一気に到達した。そうならざるを得なかったのである。

 自己を問い直す、というものが近代の本質的な部分であり、シュプレマティスムはまさにその究極的な位置を、特異点を示したのである。

 マレーヴィチは突然この境地にたどり着き、有名な黒い四角形を描いた。それが「絶対的な無対象の感覚」なのである。

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彼等の集会の中へわれ/\の一人が這入り込むと、白紙に一点薄墨のしみが出来たようで、われ/\が見てもその一人が眼障りのように思われ、あまりいゝ気持がしないのである。こうしてみると、かつて白皙人種が有色人種を排斥した心理が頷けるのであって、白人中でも神経質な人間には、社交場裡に出来る一点のしみ、一人か二人の有色人さえが、気にならずにはいなかったのであろう。そう云えば、今日ではどうか知らないが、昔黒人に対する迫害が最も激しかった南北戦争の時代には、彼等の憎しみと蔑みは単に黒人のみならず、黒人と白人との混血児、混血児同士の混血児、混血児と白人との混血児等々にまで及んだと云う。彼等は二分の一混血児、四分の一混血児、八分の一、十六分の一、三十二分の一混血児と云う風に、僅かな黒人の血の痕跡を何処までも追究して迫害しなければ已まなかった。一見純粋の白人と異なるところのない、二代も三代も前の先祖に一人の黒人を有するに過ぎない混血児に対しても、彼等の執拗な眼は、ほんの少しばかりの色素がその真っ白な肌の中に潜んでいるのを見逃さなかった。で、かくの如きことを考えるにつけても、いかにわれ/\黄色人種が陰翳と云うものと深い関係にあるかが知れる。誰しも好んで自分たちを醜悪な状態に置きたがらないものである以上、われ/\が衣食住の用品に曇った色の物を使い、暗い雰囲気の中に自分たちを沈めようとするのは当然であって、われ/\の先祖は彼等の皮膚に翳りがあることを自覚していた訳でもなく、彼等より白い人種が存在することを知っていたのではないけれども、色に対する彼等の感覚が自然とあゝ云う嗜好を生んだものと見る外はない。

 

陰翳礼讃

    谷崎潤一郎

昭和9年(1934年)

 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、日本独特の陰翳に潜む美について述べた名文である。

 ​しかし引用したこの部分は、穏やかならぬ。

 日本の美は薄暗い場所を好み、西洋の美は明るい場所を好むという対比をしたいのだろうが、人種差別を正当化しているかのように読める。

​ 谷崎は感覚的な純粋性を重視する。それは美意識と呼ばれ、谷崎は各文化圏において守られなければならないと考えているようだ。そしてそれを個人の尊厳よりも重視する。

​ 各文化における美意識と、個人の尊厳は、時に相容れず、矛盾することがある。美のためにそれを正当化できるのだろうか。