人間・そして天皇
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
世界人権宣言 第一条
1948年12月10日、国連総会で採択
人権を高らかに謳い上げた世界人権宣言は、日本の人種差別撤廃提案から30年後である。
ここに理想の一つが打ち立てられた。
しかし、この人権宣言を採択した会議に出席していたのは男性ばかりだったとみられる。
ジェンダー平等の課題は21世紀に持ち越された。
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万人が芸術家であり、人間は自らの自由から―というのも人間が直接経験するのは自由という局面なのだ―他の局面を、来るべき社会秩序という総合芸術作品において規定するに至る。
文化領域における自己決定と共同決定(自由)、また法制度における自己および共同決定(民主主義)、経済領域における自己および共同決定(社会主義)が、さらに自主管理が生起する。すなわち自由な民主主義的社会主義が生まれ出る。
私は場的特性を踏破する
ヨーゼフ・ボイス
(ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻
人智学出版社)
ヨゼフ・ボイス(1921-1986)は、すべての人間は芸術家であるといい、その行いが思考も含めてすべて造形行為であるとみなした。当然、政治的行動も芸術である。彼の「社会彫刻」という概念は、このような個々の人間が、創造性と理性をもつという前提に立っている。そして個の連帯によって民主主義的な社会が生まれるというユートピア的なものだった。
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天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
大日本帝国憲法 第3条
明治23年 1890年
この「侵すベからす」という意味は、天皇を悪く言ってはいけないということだけではない。天皇は政治的責任を問われない、やめさせることもできない、ということも含んでいる。
統治する主権であるにもかかわらず、責任を問われない。大日本帝国憲法において、天皇とは日本の特異点であり、明治新政府はこの特異点でもって日本を統治しようとした。
しかし、考えてみれば現在の日本国憲法における主権である日本国民(詳しくいえば日本国の有権者全体)も、政治的責任を問われないし、やめさせられることもない。
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海行かば
水漬くかばね
山行かば
草むすかばね
大君の
辺にこそ死なめ
かえりみはせじ
海行かば
大伴家持
(万葉集 巻十八より出典 8世紀 奈良時代)
信時潔作曲(1937年 昭和12年)
この歌では、死して自然と一体化することが、天皇と一体化することと同一とみなされている。
明治憲法では、天皇は統治者であり、政治的主権者である。
一方この歌では天皇は日本の国土と同一視され、死んだものは天皇の元に「帰っていく」。死んだら「あの世に行く」つまりこの世ではない別の世界に行くという考えは無い。死者の魂は国土にとどまり、天皇と共にある。
天皇が個人の尊厳をも包括する宗教的な理想となっている。
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人間は変りはしない。
ただ人間へ戻ってきたのだ。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。
それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
堕落論 坂口安吾
戦争中は、お国の為、大義の為に死ねといわれていた。戦後生き残った人々は死んでいった人々に後ろめたい気持ちを持っていたようだ。
そして戦後、人々は自己の生存要求にしたがって生きることとなった。
大義に生きるのをやめて自己の生存要求に従うことを、坂口安吾は堕落と言った。
ただそれを「人間を救う便利な近道」ともいう。
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以上の五つの文を見渡してみよう。
世界人権宣言では、人間は尊厳と基本的人権を持ち、それは不可侵であると定義されている。明治憲法で定義された天皇も不可侵であった。
坂口安吾は、大義を失って生きることを堕落といったが、それでもそこに「救い」があるという。
ヨゼフ・ボイスは「すべての人間は芸術家である」という。
「人間は自由で平等である」
「人間は誰もが芸術家である」
「人間は堕落する」
「天皇は不可侵である」
・・・これらに、本質的な違いはあるのだろうか?