おわりに
アートと政治
アートと政治。
基本的にこの両者に接点はない。
しかし時に両者はなぜか魅かれ合い、しばしばあまり好ましくない関係を結んできた。
どうやら、政治とはこういうものであり、アートとはこういうものである、という前提がすでに存在していて、私たちはそういうものだと思い込んでいるらしい。それ以外のものは考えられなくなっている。
その思い込みの強さというものは、ある種の人にとってはそれがなければ生きていけないようなものであり、そして大抵の場合、その人はそのことがわかっていない。私もつい最近までそうであった。・・・いや、今もたぶんそうなのだろう。
アートと政治といえば、例えばロシア構成主義のように、革命を推進するための文化的革新というようなものがある。これは政治を推進するためのアートだ。
ヨゼフ・ボイスは、社会的な活動を造形行為ととらえ、それを社会彫刻と言った。ボイスの社会彫刻は、現実の政治を動かすことだった。
また、アートは精神的な、汎自然的な、宇宙的な範囲を対象としており、政治とはその精神が現実の社会に反映されるものだという考えもある。
近年の「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」のように、対話や討論、活動を通して実際に社会に影響を及ぼしうる活動をしてそれをアートと称する動きもある。
私はそういう問いの立て方はしていない。
「はじめに」で言ったことを政治とアートという観点から整理してみよう。
現代の芸術は、造形対象の変換をおこなってきた。
行為や肉体そのものが造形素材となり(パフォーマンス)、言語や思考そのものも、造形素材となった(コンセプチュアルアート)。時間、自然、神も導入された。社会もその一つであった。
私は造形素材として「理想」を採用した。それによって以下のようなものを構成した。
理想の背景には(その理想が達成できていないネガティブな)感情が存在する。そして、その理想と感情が政治を生じさせている。例えば「平等」という理想があるが、その理想が達成できてない状態は「不平等」であり、それは不満の感情を生み、政治課題となる。
だから理想を素材として選ぶと、感情が掘り出され、それによって政治を扱うことができる。
一方、理想は美と関連が深く、そこでもアートとの関係がある。
つまり理想は、感情によって政治と接触し、美によってアートと接触する。
しかもアートと政治の両者が理想を語るとき、奇妙な位相の一致が見られる。全く別のことをいっている場合でも、語り方はよく似ている。
「はじめに」で述べたように、私は「理想によって構成される三次元空間」を意図してこのサイトを構成した。
この領域は思ったより広く、そこにはアートとも政治ともどちらともつかぬようなものを展開することができる。
このようにして獲得された新たな空間・考え方の枠組みこそが、私の作品である。これは評論文ではない。作品である。アート作品ともいえるが、「政治作品」とも言い得る。
そしてこの空間は、誰でも使うことができる。この空間を一種の考え方の道具のようにして役立てていただくことも可能だろう。
これまでの近代の成り立ちを捉えなおし今後の道を創造するには、人間の概念形成の力に期待するしかないと思う。