アートとは何か、とは何か

 私には不満がある。アートが実効力をもたないことだ。毎日入ってくるニュースや日常の生活と、私の造形行為で展開されていることとは、どうしようもないほどかけ離れている。
 いや、そうではない、という良心的な人もいる。文化は人間の精神生活の根底をなす。精神生活によって物資生活の意味は根本的に変わる。人はパンのみにて生きるにあらず。生を意味づけるものが必要であり、芸術は生きるために必要なのだ、と。

 確かにそのとおり。
 しかし、やはり私は納得がいかない。
 いや、本当はアートに実効力がないことが不満なのではない。私は世の中を動かすような影響力のある絵や彫刻をつくりたいわけではない。

 私が不満なのは、何かすでに方向が定まった確信のようなものがあることだ。そういう癖というか、基本的な物ごとの捉え方の方法のようなものは、どうしても拭い去ることができない。死んでも直らない癖、その癖が、その人そのもののようになってしまった生き方の形式である。いや在り方の癖というか。

​ そういうものが、アートと政治を分けている。分かれているものとしてしまっている。そもそも両方とも人々のためになることなので、同一のものとして見ることができる基盤がどこかにあるはずである。

 今のアートとは、そして今の政治とは、そういう在り方の癖なのだろう。僕もそういう癖をもっているし、その癖はそのものとなってしまっている。
 それが問題なのだ。いや問題にしなくてもいいのかもしれないが、私はそういうものとして受け入れることができないでいる。
 ありとあらゆる物事の分野に癖があって成り立っている。そのことが、ある特定の物事をその特定のものにみせている。だから、それが、それなのだ。

 私は、どうやら人々の(そして私の)基本的な物事の捉え方や考え方そのものに興味があるらしい。
 そして、人間とは(そして私は)そういうものがなければどうしても生きていけないようなものらしい。そして大抵の場合、その人は(そして私は)そのことがわからない。
 それは人々の(そして私の)、心の中にある感情や奥にある潜在的な意識や、そして生理機能に由来する。
 そして理念や理想は、実はそれとかけ離れているものではない。
 それらは文字に書いた言葉に浮き出るのである。
 社会を動かすものは文字で書かれている。
 スマホを使うときには膨大な契約約款がある。われわれは殆どそれを読まないが。
 歴史上の重大な事件とは憲法や法律の制定、条約の締結である。
 停戦協定を結ぶまでは、膨大な血が流れ、人々は憎しみあう。
 大事なことは文字では書かれない。しかし書かれた文字の表面に浮き出たものはその奥にある見えない闇の空間を照らす。

 だが、やはりアートは、そして僕のアートも、実効力をもたないだろう。人々を楽しませるものでも喜ばせるものでもないだろう。
 できればずいぶん先の未来に作動することを願っている。